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愛は消えず 

Author:愛は消えず 
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「天窓」の新しいスタート

「天窓」のブログをスタートいたします。
大津波で教会堂は床と十字架を残して、すべて流されてしまいました。
しかし、神様から注がれる愛、アガペーの愛は大津波によっても消えず、むしろ以前にもまして
豊かです。神様の愛に満たされ、神様を愛する愛をもって、一日一日を歩んで行きます。
これからが、新しい歩みです。
少しずつ、ブログに神様の愛を書き記していきたいと思います。
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天の窓が開かれる時は・・・・・・

天の窓が開かれる時は・・・・・
2011年2月27日

 天窓という言葉が最初に出て来るのは、神がノアに語りかけて箱舟を作るように命じた箇所です。「箱舟に天窓を作り、上部から1キュビト以内にそれを仕上げなさい。…」(創世記6:16) また似たような表現に「天の水門」「天の戸」や「天を開き」等の言葉もあります。ノアの大洪水は「ノアの生涯の600年目の第2の月の17日、その日に、巨大な大いなる水の源が、尽く張り裂け、天の水門が開かれた。」(創世記7:11)とあります。これは神のさばきの一つとして行なわれたものです。これは当時の人々の堕落と暴虐の故に起こったことです。  自然の世界に恵みを与える場合などには「主は、その恵みの倉、天を開き、時に叶って雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。」(申命記28:12)とあります。またエジプトを脱出して来たイスラエルの民が、パンや肉が食べたいとつぶやいた時に、神はモーセに対して「見よ。わたしはあなた方のために、パンが天から降るようにする。」(出エジプト16:4) と語られました。詩篇の記者には「しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。」(詩篇78:23) と語らせています。天の穀物はマナと呼ばれ、神がイスラエルの民に与えられた超自然的なパンです。それは約束の地に来るまで40年間も与え続けられたのです。  聖書の中に「あなた方がマサで試みたように、あなた方の神、主を試みてはならない」(申命記6:16) 神に対して人間がしてはいけないことが沢山ありますが、その一つに「神を試みる」ことは禁止されています。しかし、その中に例外が一つだけあります。「十分の一を尽く、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。<万軍の主は仰せられる>わたしがあなた方のために、天の窓を開き、溢れるばかりの祝福をあなた方に注ぐかどうかを試し てみよ。」(マラキ3:10) すなわち、捧げもの、献金等を捧げることについては例外で、神を試してみることが許されています。それを実践するならば天の窓が開かれて溢れるばかりの祝福が与えられると<神は約束>しているのです。ハレルヤ!◆

信仰一筋の生涯



信仰一筋の生涯
2011年2月20日

 ダニエルは15歳前後に異郷の地(外国)バビロンに連れて来られてから、70年以上も王の宮廷で仕えながら、信仰一筋の生涯を歩みました。彼の生き方の基礎には、いつもイスラエルの神に対する信仰がありました。新約聖書においても「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6) とある通りに、神に喜ばれる道は「信仰」にあります。                         その信仰とは、言葉上からみれば「信じて仰ぐ」ことですが、信じて仰ぐという「信仰」の対象が誰であり、何であるかを問う必要があります。日本人の多くの人々は、信仰する対象について、ほとんど問うことをしていないのではないでしょうか。だから「鰯の頭も信心から」などと言って、鰯の頭のようなつまらないものでも信仰すると、ひどくありがたく思われる。というわけです。結局は何でもいい、どんなものでもいいから信じればいいのだということになるのでしょう。しかし、人間は何でもいいから信じればいいということにはならないのです。信じる対象、信仰の対象というものを明確にすることが必要なのです。
 ダニエルにとって信仰の対象は明確でした。この世界を創造された神、すなわち、天と地とその中にあるすべてのものを創られた神を信じていたのです。バビロン時代の権力者ネブカデネザル王の夢の解き明しをし、その幻が与えられた時にも「神の御名はとこしえからとこしえまで誉むべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性ある者には知識を授けられる。神は深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわにし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたにこい願ったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせて下さいました。」(ダニエル2:20~23)と語り神を誉め称えています。         
 ダニエルは、聖なる神の霊を宿す人として異郷の地バビロンで生涯を閉じました。85~90年の生涯を信仰一筋に歩んだダニエルの姿勢に私たちも倣っ
て学び続けて行きたいものです。「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(ヘブル11:4)◆

賜物の価値とは


賜物の価値とは
2011年2月13日

 ダニエルは15歳前後に異郷の地(外国)バビロンに連れて来られてから、自分を含む4人の少年たちが選ばれ、3年間王の宮廷で養育されてバビロンのネブカデネザル王に仕えることになりました。養育係の宦官の長は、ダニエルにはベルティシャツァルとハナヌヤにはシャデラクとミシャエルにはメシャクとアザルヤにはアベデ・ネゴと本来のユダヤ名から別名に変更させました。
 そのように中にも、神の恵みのみ手は伸びて「神は宦官の長に、ダニエルを慈しむ心を与えられた。」(ダニエル1:9) 「神はこの4人の少年に、知識とあらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」(ダニエル1:17)とあります。                  
 ネブカデネザル王の治世の第2年目に「王は幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。」(ダニエル2:1) その夢の解き明かしをするように国中のすべての者、特に呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人に命じますが誰一人その夢を解き明かすことはできませんでした。そのためにネブカデネザル王は怒り狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じたのです。この命令は、ダニエルとその同僚たちも例外ではありませんでした。「その時、ダニエルは、バビロンの知者たちを殺すために出て来た王の侍従長アルヨクに、知恵と思慮とをもって応対した。」(ダニエル2:14)ダニエルは、その夢を解き明かすための時を与えてくれるように願いました。ダニエルは自分の家に帰り、3人の同僚たちに話をし、祈りの要請をして、共に天の神にあわれみを請い、他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと願ったのです。その結果、天の神はダニエルや三人の同僚の祈りに答えてくださり、王の夢を解き明かすことができたのです。偉大な天の神の御名を誉め称えています。
 ダニエルは神によって与えられた賜物を、他者との良き関係のために用いています。賜物は、多くの人々と共有され、用いられることによってはじめて良きものになるのです。自分一人だけのための賜物には何の意味も価値もありません。賜物の価値は、共有されて用いられてこそ、はじめて意味があるのです。◆

人生の時と四季

人生の時と四季
2011年2月10日 天窓ニュース No.51

 「時」に関して、世界の全ての民族に諺や言葉がたくさんあります。「少年老い易く、学成り難し」「歳月は人を待たず」「光陰矢の如し」「時は金なり」など日本語や漢詩にあります。また「時」を人生の四季や旅路にたとえている言葉もあります。 
 聖書の中にも「時」について様々なことを教え、示唆しています。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道3:1~2) どんなことにも時があることは、この世の現実です。
 また、ある程度年齢が上がると、私たちの人生の時は短く、速やかに流れて去ってしまうものであることを日々実感しているのではないでしょうか。ヨブも「私の日々は機(ハタ)の杼(キ)よりも速く。望みもなく過ぎ去る。」(ヨブ7:6)「私たちは昨日生まれた者で、何も知らず、私たちの地上にある日は影だからである。」(ヨブ8:9)「その日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、しあわせを見ない。」(ヨブ9:25)と語り、時や日は影のようなもので、望みがなく、しあわせを見ないと悲観的な味方をしています。
 ヨブの弁明をすればヨブの苦難の後の人生は「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(ヨブ42:12)「こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死ん だ。」(ヨブ42:17) とあり、長生きし祝福された人生を歩んだことがわかります。
 人生の四季を「春」は幼少年時代を「夏」は青年時代を「秋」は中壮年時代を「冬」は老年時代をたとえる場合もあります。このように私たちはこの人生の四季を段階を追って進んで行きます。そして最後に、思いもかけずに私たちは、自分がこの世の生の終わりの段階への下り坂を歩んでいることに気づくようになります。人生の春夏秋冬は誰にもすぐにも確実にやって来るのです。
 かの賢人ソロモンは、この老年期は、何の喜びもないことを思い知らされる時期であると言い、老年の姿と最後の状態を「象徴的」にとらえています。「その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。通りの扉は閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちは通りを歩き回る。こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばで壊される。」(伝道者の書12:3~6)
 私たちに、与えられている人生の時はそれほど長くはないことを心に留める必要があります。それ故に「時」を大切にして、賢く用いなければならないことを思わされます。「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:16)◆

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