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屋上の部屋の窓は・・・

屋上の部屋の窓は・・・
2011年2月6日

 ダニエルたちは若い時に15歳前後に異郷の地(外国)に連れて来られてから、70年位の歳月を経ました。ダリヨス王の時代に三人の大臣の一人として任命されたのは85歳位の年齢であろうと思われます。ダニエルの生涯はイスラエルの神を信じて「忠実に」歩み続けた姿を見ることができます。「彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかった」(ダニエル6:4)とあります。その「忠実さ」の故に、他の大臣や太守たちの妬みの買ったのです。妬みの故に「ダリヨス王以外に、いかなる神にも人にも、祈願する者は誰でも、獅子の穴に投げ込まれると。
 禁令を制定し、文書に署名をして欲しいと依頼されて、ダリヨス王は署名してしまうのです」(ダニエル6:7~9)妬みという罪の陰謀がありました。「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。<彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かって開いていた。>彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」(ダニエル6:10)ダニエルの現在いる場所から、イスラエルおよび神殿のあるエルサレムは南西の方角になります。彼にとってイスラエルは故郷であり、エルサレムは主の神殿がある場所でもあります。その故郷に帰りおよびエルサレムの神殿で神を礼拝したいという思いはどれほどのものだったでしょうか。だからこそ屋上の部屋の窓はエルサレムに向けて開かれていたのでありましょう。
 ダニエルは、その文書の署名されたことを知って自分の家に帰った。すなわち、ダリヨス王が禁令の文書に署名した(印鑑を押した)ことを知っても(ダリヨス王を拝まない者は獅子の穴に投げ込まれるという災難に会ってもの意)彼はいつもの通りに自分のなすべきことをしたのです。周りの事態がどのようになり、自分にとって不利になったとしても、普段しているように、一日のうちに三度、屋上の部屋のエルサレムの方角に開かれた窓辺で、ひざまずき、イスラエルの神、主に祈り、感謝をささげていたのです。
 ダニエルの生涯を振り返り見ると、年齢には関係なく、そこには忠実な信仰と与えられた賜物を謙遜のうちに用いている姿を見ることができます。ハレルヤ◆

神の幻を解き明かす賜物

神の幻を解き明かす賜物
2011年1月30日

 ダニエルたちは若い時に異国(外国)に連れて来られました。おそらく15歳前後の年齢と思われます。最初はネブカデネザル王に仕え、クロス王の元年まで王宮で仕え、その後ベルシャツァル王にそしてダリヨス王に、クロス王にも仕えました。「ダニエルはクロス王の元年までそこにいた」(ダニエル1:21)「このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシャ人クロスの治世に栄えた」(ダニエル6:28)とあります。
 ダニエルには「すべての幻と夢を解くことができる」(ダニエル1:17)賜物が与えられました。ネブカデネザル王に対する幻を解き明かし、またその息子のベルシャツァル王が、大宴会を開催した時に驚くべき出来事が起こりました。「すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手先を見た時、王の顔色が変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、膝はがたがた震えた」(ダニエル5:5~6)とあり、それを見たベルシャツァル王は手の指で、壁に書かれた文字を読み、解き明かすように命じましたが、バビロン中の知者(呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占い)たちは誰一人その文字を読み、解き明かすことはできませんでした。その時に王母が登場して「あなたの王国には、聖なる神の霊の宿る一人の人がいます」と進し「今、ダニエルを召して下さい。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう」(ダニエル5:11、12)ダニエルは、すぐにベルシャツァル王の前に呼び出されて「その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』その言葉の解き明かしはこうです」(ダニエル5:25、26)『メネ』とは神があなたの治世を終わらせる。『テケル』とはあなたは目方不足である。『パルシン』とはあなたの国がメディヤとペルシャとに分割される。ことであると、その文字を読み、解き明かしをしました。   
 人の手の指(手先)が現れて王宮の壁に文字を書くというこの驚くべき出来事が起こったのは「いと高き神」「天地の創り主」がこの世界を支配しておられることを示すと同時に、人間の高慢や高ぶりや誤った自尊心を戒めるためでもあります。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言16:18)◆

たといそうでなくとも

たといそうでなくとも
2011年1月23日

 ダニエル書を読むときに思わされることの一つは、ダニエルを含む四人の若者の信仰です。若い時に異国(外国)に連れて来られて、異国の王に仕えねばならない状況になりました。そのような中にもイスラエルのの神を信じて生涯を歩み続けた姿を見ることができます。
 また四人の若者の生涯を支配したものの一つに「信仰」がありますが、ダニエルには特に「すべての幻と夢を解くことができる」(ダニエル1:17)賜物が与えられました。その賜物を、時の権力者ネブカデネザルのために用いて、天の神がおられることを証しました。それらの出来事を通して、「ダニエルは王に願い、三人の友はバビロン州の事務を司どることになり、ダニエルは王の宮廷にとどまった」(ダニエル2:49)とあります。
 少し時が経てから、ネブカデネザル王は、バビロン州のドラの平野に高さ60キュビト(約27㍍)幅6キュビト(約2.7㍍)の「金の像」を造りすべての者に、平伏して金の像を拝むことを要求し「平伏して金の像を拝まない者は誰でも、火の燃える炉の中に投げ込め」(ダニエル3:11)と命じられたのです。そのような中にバビロン州の事務を司どる三人のユダヤ人シャデラク(ハナヌヤ)、メシャク(ミシャエル)、アベデ・ネゴ(アザルヤ)の三人は金の像を平伏して拝むことをしませんでした。そのために三人は訴えられ、ネブカデネザル王の前に引き出されて弁明させられた時に、彼らは「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もしそうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。
 私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:16~18)と答えました。金の像を拝まない結果、火の炉の中に投げ込まれることになりますが、彼らは火に焼かれることもなく神によって助け出されました。  
 この三人は、どのような状況になったとしても、偶像礼拝はしないと心に決めていたのです。イスラエルの神、主だけがまことの神、天地を創造され、人を創られ愛される神であることを信じていたのです。◆

その多様性こそ宝なり

その多様性こそ宝なり
2011年1月16日

 毎年、年賀状のやりとりをしていますが、その年賀状のやりとりは一年に一回だけの人もあります。年賀状だから一年に一回と言うのは当たり前のことなのですが、郵政省のキャッチコピーに「年賀状は贈りものだと思う」とあります。一年に一度のお便りの贈りものだと考えたら、上手なキャッチコピーをつけたものだと改めて思わされました。 
今年、改めて送られた年賀状の一枚一枚を見ていましたら、一枚として同じデザインのものが一つもないことを覚えました。手書きのもの、筆字のもの、ボールペン字のもの、印刷のものの違いはあれ、またコメントがあるもの、無いもの、家族の写真を取り入れたもの、子どもたちだけの写真のもの、み言葉があるもの、干支の入ったもの、縁起物のもの、絵手紙風のものなど、中には読み方は同じでも苗字が誤りのもの、一番ものは読み方は同じでも苗字と名前が別人のものが来たことで、思わず大笑いしてしまいした。 
一枚一枚の年賀状を見ながら「謹んで新春のお慶びを申し上げます」「新年あけましておめでとう」「つつしんで初春のお慶びを上げます」「AHappyNewYear」「あっはっぴーにゅういやー」「明けましておめでとうございます」「新年おめでとうございます」「新春のおよろこびを申し上げます」「賀正」「頌寿」「迎春」「賀春」「頌春」「謹賀新年」など日本語の表現の豊かさを思わされました。   一枚一枚の送り主の名前と顔とを思い起こしながら、一人一人の個性が、そのパーソナリティが、そのまま年賀状にも表現されていることの多様性の豊かさを思わされました。そのこと考えると、人間に対してその個性を与えられ、その表現の仕方もそれぞれに固有のものを与えられた神の偉大さ、主イエス様の素晴らしさを誉めたたえずにはおれません。                            この世界のすべての創られたものの秩序だった美しさと、その統一性とその多様性は宝物であり、神の永遠の叡智に対して、私たちは膝を屈して主を誉め称えるべきではないでしょうか。『神はお創りなったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。』(創世記1:31)ハレルヤ!アーメン!◆

旗幟鮮明ですか

旗幟鮮明ですか
2011年1月9日

 キリスト者は「地の塩」であり「世の光」であると、イエス様は私たちに語られました。地の塩でありなさいとか、世の光でありなさいと言ったのではありません。すばり「地の塩」である「世の光」であると言い切りました。私たちは塩の役割や、光の役割がどのようなものであるかを理解しています。塩も光も無くてならぬ物の一つです。私たちキリスト者はその生き方が旗幟鮮明でなければなりません。
 「私は誇り高き交わりに加わっている。さいは投げられた。もう後へは引けない。私は一歩踏み出したのだ。心は決まった。私はイエス・キリストの弟子になるのだ。                      
 私はもう振り向かない。力を抜かない。歩みを遅くしない。後へ引かない。じっと立ち止まることもしない。私の過去はあがなわれた。私の現在には意味があり、私の未来は保障されている。
 程度の低い妥協的な生き方はもう止めた。見えるものに頼る生き方、すべすべのひざ、色あせた夢、鎖のついたビジョン、この世的な話、安っぽい施し、ゆがめられたゴール……。
 私の目は向くべきところに向いている。私の足取りは軽い。ゴールは天国にある。道は狭く、険しい。同行者は少なくとも、案内人は信頼できる。私の成すべき仕事は明らかである。私はあきらめない。黙らない。力を抜かない。イエスのために生き続ける。祈り尽くす。犠牲を払い切るまでは。
 私は行かなければならない、主が来られるまで。ささげなければならない、倒れるまで。伝えなければならない、すべての人が知るまで。働かなければならない、主が私を止められるまで。そして、主が来られる時、私を探しだすのに苦労はしないだろう。私の旗印は明らかだから。」       
「アフリカの若き殉教者の言葉」(EHCの文書)           
 あなたの旗印は、キリスト者としてこの世にハッキリしているでしょうか。<旗幟鮮明>とは旗じるしが明らかであること。態度・主義がハッキリとしていることです。「モーセは祭壇を築き、それを「アドナイ・ニシ(主はわが旗)」と呼びました。(出エジプト17:15)◆

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